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リュッツェンの戦い(Schlacht bei Lützen)は、三十年戦争中の1632年11月16日(旧暦11月6日)にドイツのライプツィヒ南西、近郊において、グスタフ2世アドルフ(グスタフ・アドルフ)率いるスウェーデン軍およびドイツ・プロテスタント諸侯の連合軍と、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国軍との戦いである。 しかし、この戦いでスウェーデン王グスタフ・アドルフは戦死、以後スウェーデンは参戦当初の勢いを失い、2年後のネルトリンゲンの戦いの敗北によって、三十年戦争における主導権を失った。この戦闘におけるグスタフ・アドルフの死と、2年後のヴァレンシュタインの暗殺によって、三十年戦争は膠着状態に陥ることになった。 == 背景 == レヒ川の戦いにおけるティリー伯の死によって神聖ローマ皇帝フェルディナント2世から皇帝軍司令官に復帰したアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインは、わずか3ヶ月で4万人を超える大量の傭兵を動員し、劣勢だった皇帝軍を立て直した。スウェーデン軍を中心とするプロテスタント軍はニュルンベルクへ進み、皇帝軍に対して決戦を挑もうとしたが、ヴァレンシュタインが野戦陣地を敷いてこれを迎え撃ったために膠着状態に陥った。プロテスタント軍は何度か強襲を仕掛けたが、そのたびに撃退されて戦果を上げられず、兵糧の不足にも悩まされたため撤退した()。 スウェーデンの参戦以降、連勝を続けてきたプロテスタント軍にとっては初めての敗北であり、軍事的損害は大きくなかったが政治的なダメージは深刻だった。日和見を続けていたドイツ諸侯が皇帝軍支持に傾いたからである。ヴァレンシュタインはこの勝利を生かすべくザクセンへ兵を向けた。ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルク1世はグスタフ・アドルフのドイツにおける勢力拡大を恐れ、皇帝との講和を考えていた。それゆえザクセンを攻撃すれば早期に講和を申し出てくる可能性が大きく、プロテスタント陣営から有力な勢力を離脱させられるとヴァレンシュタインは考えたのである。 皇帝軍のザクセン侵攻に対し、グスタフ・アドルフは救援のために軍をナウムブルクまで進め、キャンプを張り始めた。ライプツィヒに本営を置いていたヴァレンシュタインは、すでに厳冬期に差し掛かっているためプロテスタント軍はナウムブルクでそのまま冬営に入り、これ以上軍を動かすことはないと判断した。そこでヴァレンシュタインは、に一軍を与えてモリッツベルクへの攻撃に派遣し、自身は残りの軍を率いてライプツィヒとナウムブルクをつなぐ街道の途上にあるへ移動し、11月14日に同地へ到着した。 しかし皇帝軍の分割を察知したグスタフ・アドルフは、弱体な間に決戦を強要すべく、ヴァレンシュタインの裏をかいて強行軍でリュッツェンへ向かっていたのである。プロテスタント軍の接近を知ったヴァレンシュタインは部隊を展開させて野戦陣地を敷くとともに、直ちに軍を返すようパッペンハイムに急使を派遣した。 11月15日の夜更け、プロテスタント軍はリュッツェンに到着した。皇帝軍がすでに陣地を築いているのを見たグスタフ・アドルフは、強行軍で疲労した部隊で強襲をかける愚を悟り、パッペンハイムの援軍に挟撃されることを警戒したため、街道を挟んで皇帝軍と平行に陣を敷いて対峙した。同日深夜、ヴァレンシュタインからの一報を受け取ったパッペンハイムは、急遽騎兵のみをまとめ、本隊と合流するために引き返していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「リュッツェンの戦い (1632年)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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